Carlosの喰いしごき調査委員会
がまだせ島原編
第3話「とら巻、かす巻、カステーラ」の巻

1.島原のお菓子
 子供のころ、我が家に島原から親戚がやって来るときはときは、そのお土産が楽しみだった。そら豆にショウガ味の砂糖をかけた「チェリー豆」、クリームを挟んだ甘い煎餅「クルス煎餅」、黒砂糖の駄菓子「三角」。
 そして忘れて成らないのが「カステラ」と「とら巻」である。

2.炭焼きカステラ
 島原半島の国道を自動車で走っていると、何軒かの和菓子屋さんを見かけるが、そのお店の多くは「カステラ製造販売」と看板に書いてある。「製造」の文字はなくとも、ほぼ全ての和菓子店でカステラは置いているようだ。島原在住の親戚のお爺さんの話によると、昔は炭火を使って、カステラ専用の鍋で焼いていたそうだ。炭火で焼くのは火加減や鍋をひっくり返すタイミングが難しいが、とても美味しく焼けるのだそうだ。
 カステラについては今更説明はいらないだろう。言わずと知れた長崎名物、南蛮渡来の銘菓である。その名前はスペイン北部の地名の「カスティーリャ」に由来すると言われている。ポルトガル船がカスティーリャ地方(当時は今のポルトガルとスペインにまたがるカスティーリャ王国だったそうです)のお菓子を長崎に持ち込んだのが始まりと言われている。
 それでは、当時、日本に持ち込まれた南蛮渡来のお菓子はどんな物だったのだろうか。いくつかの長崎カステラの老舗(注1)の説明によると、スペインの「ビスコッチョ」(注2)というお菓子または、ポルトガルの「ポン・ド・ロー」というケーキがその原型と言われているようである。私は残念ながら、未だこれらスペインやポルトガルのお菓子は食べたことはないので何とも言えないが、カステラの日本伝来は日本が鎖国する前の話であるので、ポン・ド・ローだったせよ、ビスコッチョだったせよ、恐らく、当時は素朴な焼き菓子だったのではないかと思う。

3.本当は虎縞だったのか?
とら巻(銅板焼とら巻、白餡) 「とら巻」というのは、カステラのような生地で餡を巻きくるんだお菓子である。子供の頃はなによりも、この和菓子と洋菓子のハイブリッドな「とら巻」が、お土産にあることが嬉しかった。生地にくるまれた餡には白餡と黒餡があり、いずれもこし餡である。生地の表面に砂糖がまぶしてあり、結構甘く仕上がってる場合が多い。また、このカステラ生地は緻密だったり、素朴だったり、餡も激甘だったり、程良かったり、見た目は一緒でもお店によってかなり味が違うものである。
 さて、この「とら巻」という名前ではあるが、子供の頃から大人になった今まで食べ続けていて、最近までどこらへんが「とら」なのか全く分からなかった。が、つい先月の話である、「銅板焼とら巻」なるとら巻を、島原半島内のとある温泉施設(注3)のお土産売場で見つけて、やっと納得するに至った。この「銅板焼きとら巻」は、他の普通のとら巻と異なり、カステラ生地の表面に砂糖がまぶしておらず、良い焼き色の生地が露出しているのである。銅板で焼いているためか、その焼き目はまだらになっている。そう、見ようによってはこのまだらが虎縞に見えるのである。おそらくこのまだらの焼き目から「とら巻」の名が付けられたのであろう。それが、何らかの理由(例えば「砂糖=贅沢=ご馳走」的なかつての流行で、)で砂糖が生地表面にまぶされたために、なにが「とら」なのか分からなくなってしまって、今に至っていたのではないだろうか?

4.「カステラ巻き」を略して
 島原のお土産物売り場には「とら巻」と全く見た目が同じ(たぶん、味も一緒、実質同一?)のお菓子「かす巻」が陳列してあるのをよく見る。この名前は「カステラ巻き」を短くして「かす巻」となった物と想像される。「かす巻」と呼ばれるお菓子は島原と同じ長崎県内(特に長崎市)でもよく見られ、お隣の佐賀県でも見られる(注4)。島原では「とら巻」も「かす巻」も両方の名前で売られているようであるが、私の観察では「とら巻」と表記してある方が圧倒的に多いようだ。

5.一六タルトと似ているね
 長崎県外の人に、この「とら巻」のことを説明すると決まって言われるのが「愛媛の松山名物の一六タルトと似ているね」という言葉である。外見はちょっと違うものの、カステラのようなスポンジ生地で餡を巻いたという点や、量の多少はあるとはいえ砂糖を表面にまぶしてある点については確かに似ている。
 一六本舗さん(注5)によると、1647年(正保4年)幕府より長崎探題職兼務の名をうけていた松山藩主松平定行公が、ポルトガル船二隻が長崎の入港したとの知らせで、急遽、海上警備にあたった際に、南蛮菓子「タルト」に接し、製法を松山に持ち帰ったのが起源とのことである。
 やはり、その起源は当時の国際港長崎にあり、元をたどれば、カステラ同様にポルトガルから伝わったもののようだ。

6.とら巻が徳島に!
 さらに色々調べていて驚いたのが「とら巻」が一六タルトと同じく四国の名物としてあることだ。一六タルトが名物となっている愛媛県の隣県、徳島県、その北部、吉野川流域では「とら巻」というお菓子が名物なのだそうだ(注6)。このお菓子も、やはり焼いた生地で餡を巻いたもので、前述の島原の銅板焼き同様、生地に焼きむらが出来て虎縞のようになっているので「とら巻」と呼ぶらしい。島原の「とら巻」と徳島の「とら巻」はかなり似たお菓子と言えるだろう。

7.これもそうめんと同じか?
再度登場、原城跡の天草四郎の像 四国と島原に生地で餡を巻いたお菓子が共通して存在するというのを聞くと、第1話で書いた島原そうめんと小豆島そうめんの関係を思い出す。
 島原そうめんの話をおさらいしてみると...事の始まりは1637年にキリシタン弾圧と農民への圧政に耐えかねて島原・天草住民が蜂起して起きた「島原の乱」。反乱軍は幕府の大軍に善戦するも、結局は大敗。頭の天草四郎時貞以下反乱軍全員(=当時の島原半島南部の住民全員)が処刑された。その後の幕府によって、人が居なくなってしまった島原半島南部へ九州各地および瀬戸内地方からの強制移住が執行された。このときに小豆島から移住してきた住民によりそうめん作り伝わり、定着した...ということである。
 そうめんと同じように、愛媛の一六タルトや徳島のとら巻も強制移住の際に四国・瀬戸内地方から島原に持ち込まれて「とら巻」となったのであろうか?
 
8.四国と島原を結ぶもの
 前出の一六本舗さんによると松山藩主が長崎から一六タルトの原型を持ち帰ったのは1647年で、島原の乱の10年も後の話である。強制移住執行に10年以上かかったとしたら、つじつまが合わないこともないが、少々、時間的に無理がある。さらに、そもそも一六タルトの原型は、長崎から伊予松山に持ち込まれたものである。長崎により近い島原に伊予松山から逆輸入されたと考えるのも少々地理的に無理があるように思える。
 とにかく、長崎県・佐賀県で「かす巻」と呼ばれているお菓子が、長崎県内の島原地方だけで特異的に「とら巻」と呼ばれていること、四国徳島に名前も同じ形態も同じ「とら巻」というお菓子があること、云々を考えると、四国と島原の間(注7)を結ぶものが何かがあるのだろう。それが島原の乱後の強制移住なのか? それより後の別の事なのか? 結論を出すにはもう少し調べなければならないことがありそうだ。



注1 長崎カステラの老舗: 福砂屋文明堂総本店(又はこちら)、松翁軒などのホームページにカステラの歴史が詳しく載っている。特に福砂屋さんのホームページ内の「カステラ文化誌」は必見。この他、文明堂新宿店文明堂日本橋店横浜文明堂なども参照されたし。
注2 ビスコッチョ: ビスコッチョと聞いて思い出したのが、イタリア・トスカーナのお菓子ビスコッティ。この二つが同じお菓子かどうかは分からないが、語源は同じだろう(いわゆるビスケットも恐らく語源は同じ)。ビスコッティは硬い硬い、歯が折れるかと思うくらい硬い焼き菓子で、ナッツが入ってたりして、香ばしくて美味しい。あのスターバックスコーヒーでも売られていた。コーヒーなどに浸して柔らかくして食べるのだとか。あのカチカチのビスコッティがフワフワ・しっとりのカステラの祖先とはとうてい思えないが...
注3 温泉施設: Carlos超お気に入りの温泉施設である。南有馬町の原城温泉真砂。私の祖父の実家の近く。有明海と普賢岳を望む大浴場は絶景! 
注4 佐賀県のかす巻: 佐賀県久保田町の佐賀風月堂のホームページ参照。
注5 一六本舗: 一六タルトの老舗、一六本舗のホームページ参照。
注6 吉野川流域:徳島中央広域連合のホームページ内にある吉野川中流域の案内ページに「とら巻」のお店が出てくる(吉野町の項を見られたし)。
注7 四国と島原: 麦研究者H氏に聞いた話によると、ハダカムギの栽培地域も四国と長崎に限られているそうだ。これも偶然の一致か?
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