注1 スピード違反:このときCarlos、無違反ゴールドカード保持者であった。ちなみに世紀が明けて初の春の交通安全週間の中、40km制限の見通しの良い農道でのわずかなオーバーが元で、とっ捕まってしまった。次回更新時からゴールドでなくなる。トホホ。


注2 展望台:俵石展望台。非常に景色が良いので、晴れたときは足をとめてみることをお薦めする。


注3 そうめんを売る店: 国道251号線を走ると西有家町、有家町付近でそうめんの製造販売店が多く、中にはそうめんレストランを併設する店もある。製造販売店ならではなのが「そうめんの節」である。製造時にそうめんを棒に掛けていた部分を切り取った物で、味噌汁の実に入れると美味しい。ちなみにそうめんやそうめんの節を味噌汁に入れるときは、カボチャを入れると非常に良いマッチングを見せる。


注4 瀬戸内地方: Carlosの本名の姓は「松島」である。物の本によると、松島姓には二つの発祥の地がありその一つが瀬戸内地方なのだそうだ(ちなみにもう一つは信州伊那地方)。私の先祖もこのとき、瀬戸内から移住させられたんだろうか?


注5 通説: 小豆島説以外にも島原そうめんの由来は諸説有るようだ。例えば、そうめん製造法の特徴から見ると、島原そうめんは小豆島からではなく中国福建省から伝えられたとの説がある。島原は、江戸時代唯一の貿易港である長崎が近く、中国福建省からそうめんの製麺技術が伝わっても不思議はない。が、しかし、実際に小豆島からの移民が多くあったと言う事実があるので、「どうしても福建省説は捨て切れぬ!」とするなら、まず、小豆島からのそうめん製法の下地技術が移民によって伝えられ、後に福建省からの新技術導入がなされた、と考える方が自然かも?これについては今後も調査が必要。


注6 一大産地: 「聞き書き長崎の食事」(農文協)によると、昭和の初め頃は、須川地区の戸数の約一割がそうめん製造に携わっていたとのことである。そうめんの生産は冬場に行われることが多く、「半農半麺」の家内生産だったそうである。


注7 おろしショウガ: 冷やしうどんも絶対おろしショウガ! 逆に冷たいソバは断然ワサビ! ついでに言うと、醤油ラーメン、塩ラーメンは胡椒! 味噌ラーメン、トンコツラーメンはトウガラシ!


注8 私の祖母: 私の祖母はそうめんについては伸ばしてしまっていた様であるが、お料理は非常に得意な人であった。また、その年齢にしてモダンな食べ物に対しても果敢に挑戦され、自分のモノにしてしまう人で、ケーキ作りなども得意とされていた。病気で倒れられる直前まで、孫である私にケーキを焼いてくれていたことが思い出される。「本文で悪く書いてゴメンね、お婆ちゃん」


第2話 「何故にニガリを使わないのか」の巻
注1 デンプン:「聞き書 長崎の食事(農文協)」によるとジャガイモのデンプンよりもサツマイモのデンプンの方がひき(こし、ねばり)がよいとのこと。豆乳4升にデンプンは8合入れる。ちなみに、一般には胡麻豆腐の場合は葛粉を入れる場合が多い。


注2 文献:注1同様「聞き書 長崎の食事(農文協)」である。


注3 甘味噌ダレ:味噌茶碗一杯に対し、砂糖茶碗半分を混ぜて作るタレ。「ぬた」と呼ばれる。


注4 堅豆腐: 喰いしごき調査委員会、宮崎山里、蕎麦仙人と百済伝説 編、第4話「豆腐を荒縄で縛ばれるか」の巻を参照されたし。


注5 豆腐蒲鉾:豆腐を崩してすり、藁づとに包んで蒸し揚げた料理。従来は正月、祝儀、法事の際に食べるものであったようである。また、生鰯のすり身を入れることもあった。現在では市販の豆腐蒲鉾はほとんどが魚のすり身入りである。


注6 呉:古代中国の国名であり、三国志の時代に孫権が起こした国名でもある。「唐」同様に中国そのものをさす言葉としても一部使われる。


注7 有田:有田の呉豆腐に関してはその名も「ごどうふ.com」というホームページがある。有田の呉豆腐について詳しい内容のサイトである。


第3話 「とら巻き、かす巻き、カステーラ」の巻き
注1 長崎カステラの老舗: 福砂屋文明堂総本店(又はこちら)、松翁軒などのホームページにカステラの歴史が詳しく載っている。特に福砂屋さんのホームページ内の「カステラ文化誌」は必見。この他、文明堂新宿店文明堂日本橋店横浜文明堂なども参照されたし。


注2 ビスコッチョ: ビスコッチョと聞いて思い出したのが、イタリア・トスカーナのお菓子ビスコッティ。この二つが同じお菓子かどうかは分からないが、語源は同じだろう(いわゆるビスケットも恐らく語源は同じ)。ビスコッティは硬い硬い、歯が折れるかと思うくらい硬い焼き菓子で、ナッツが入ってたりして、香ばしくて美味しい。あのスターバックスコーヒーでも売られていた。コーヒーなどに浸して柔らかくして食べるのだとか。あのカチカチのビスコッティがフワフワ・しっとりのカステラの祖先とはとうてい思えないが...


注3 温泉施設: Carlos超お気に入りの温泉施設である。南有馬町の原城温泉真砂。私の祖父の実家の近く。有明海と普賢岳を望む大浴場は絶景! 


注4 佐賀県のかす巻: 佐賀県久保田町の佐賀風月堂のホームページ参照。


注5 一六本舗: 一六タルトの老舗、一六本舗のホームページ参照。


注6 吉野川流域:徳島中央広域連合のホームページ内にある吉野川中流域の案内ページに「とら巻」のお店が出てくる(吉野町の項を見られたし)。


注7 四国と島原: 麦研究者H氏に聞いた話によると、ハダカムギの栽培地域も四国と長崎に限られているそうだ。これも偶然の一致か?


第4話「炎熱の具雑煮・灼熱の卵」の巻
注1 島原城: 1616(元和2)年、松倉豊後守重政の築城による。1964(昭和39)年に復元。現在、天守閣はキリシタン史料館、また、櫓は北村西望記念館、民具資料館などとなっている。


注2 長崎白菜: 別名「唐人菜」。白菜と名前にあるが、実際には白菜ではなく中国野菜ターサイの近縁種らしい(野菜園芸大事典)。お雑煮に欠かせない他、漬け物にも使われる。


注3 カマボコ: 二種類入っていたカマボコの一つは、卵で巻かれた白いカマボコで刻んだキクラゲが入っているものだった。これは子供の頃から私の大好物の佐藤蒲鉾店の「浪花巻」に違いない!


注4 南有馬町: 町の公式HPには島原の乱や原城跡に関する情報が詳しく載っている。


注5 雲仙: 雲仙観光協会のHP「るるる雲仙」にその歴史などが詳しく載っている。


注6 サツマイモ: 島原地方の呼び名は「といも」。雲仙でもこの名前で売られていた。


第5話 「島原饅頭地獄」の巻

注1 フェリー: 有明フェリー、船上からは運が良ければ小型のイルカであるスナメリの群が見れる。


注2 ニセ蒸籠: 観光地の土産物屋の店先にはホカホカと湯気立つ蒸籠が置いてあって心躍らされることがあるが、実は煙だけが吹き出す仕組みのニセ蒸籠だったりして、ガッカリさせられることがある。


注3 山帰来: ユリ科。学名Smilax chinaL.。和名:サルトリイバラ。根に毒消しの効果があるとされているため、「山に入って毒消しをして帰って来る」と言う意味で「山帰来」と呼ばれるらしい。一般にサルトリイバラの別名がサンキライとされているが、正確には中国のサンキライ(Smilax glabra)が分類学上本当のサンキライで、サルトリイバラはこの本当のサンキライとは近縁種であるが別種にあたる。


注4 饅頭を包む山帰来の葉: ちょっと調べてみたら福岡県のお茶の産地である八女地方でも山帰来の饅頭が食べられているようだ。夏祭りのご馳走として「サンキラ饅頭」または「いげん葉饅頭」(山帰来の地方名が「イゲ」で「いげん葉饅頭」=「イゲの葉饅頭」の意)と呼ばれて食べられている。
 その後、さらに福岡県八女地域やその周辺の人に聞くと、この「いげんは饅頭」、「さんきら饅頭」は、小麦粉で作った饅頭ではなく、餅粉で作ったものと判明した。すなわち「いげんは饅頭=柏餅(この地方で言うところの)」だった。


注5 饅頭:「聞き書 長崎の食事」(農文協)より。甘酒を使い饅頭種を膨らませる「ふくれ饅頭」が各家庭で作られていたそうだ。餡はサツマイモ餡やソラマメ餡が多かったとのこと。


注6 小さな和菓子屋さん:たしか「福田屋」さんという屋号だったと思う。


注7 島原鉄道:通称「島鉄」、現在、島鉄は諫早−加津佐間を走るが、祖父が学生の頃は、恐らく諫早−島原間だけであったと思われる。島鉄ホームページ


注8 噴火:雲仙普賢岳の噴火災害とその後の復興に関しては島原市のホームページに詳しい



第6話「六兵衛は嫌われ者か?救世主か?」の巻 
注1 島原半島でしか見られない麺料理: 「聞き書 長崎の食事(農文協)」によると、実は同じ長崎県の対馬でも同じ「六兵衛」と呼ばれる麺料理があるそうだ。材料もサツマイモ、製法も押し出し麺方式で、すまし汁をかけて食べると言うところまでは全く島原半島の六兵衛と同じである。ただ一つ違うのは、島原半島の六兵衛は切り干ししたサツマイモの粉を使うのに対して、対馬のそれはサツマイモを発酵させてつくった「せん」と呼ばれるデンプンを使うことである。
......と、ここまで、この「注1」を書いていて、ちょっとした仮説を思いついた。「第6話のオマケ」として、別に報告する。


注2 押し出し麺はアジア各地で見られるが: 国立民族学博物館館長の石毛直道氏の御著書「文化麺類学ことはじめ(フーディアム・コミュニケーション社)」によると、朝鮮半島の冷麺(バレイショデンプン、ソバ他)、タイのカノムチン(米)、ブータンのプッタ(ソバ)、中国の春雨(リョクズ)、ビーフン(米)、河漏麺(エンバク他)など、アジアには広く押し出し麺が分布している。そういえば、スパゲッティーも押し出し麺だった。
 日本では糸蒟蒻が押し出し製法で作られる。また、トコロテンも押し出す(突き出す)が、どちらかというと押し出すことにより麺状に「切っている」ので押し出し製法ではない....というか、一般に主食として食べる物を麺とするので、これらは麺と言えない(糸蒟蒻やトコロテンを主食にするのはダイエット中の人ぐらい)。


注3 作り方: 本文には「聞き書 長崎の食事(農文協)」による古くからの製法を記した。現在、お店で食べることのできる六兵衛の製法とは異なるかもしれない。


注4 江戸時代後期: 「聞き書 長崎の食事(農文協)」によると六兵衛どんが六兵衛を考案したのは寛政の「島原大変」のずっと後、同じ江戸時代後期でも「天保の大飢饉」(天保4(1833)年)に際してであるとしている。どちらが正しいのか?? 


注5 雲仙普賢岳が噴火し: 「島原大変」と呼ばれる。「島原大変」の他、雲仙・普賢岳の噴火については島原市のHPが詳しい。


注6 深江町: 島原市の隣町、そのHPには郷土料理六兵衛やイメージキャラクター六兵衛どんの情報も。



第7話「ちゃんぽんとチャンポンをちゃんぽんにしてしまった話」の巻

注1 四海楼: 長崎市松が枝町にある、ちゃんぽん・皿うどんの老舗。そのHPにはちゃんぽん・皿うどんの歴史も詳しく載っている。 

注2 江山楼: 長崎市新地町すなわち中華街にあるちゃんぽん・皿うどんの名店。HP にはさだまさし氏が作ったイメージソングのことも載っている。

注3 とある集まり: 福岡県を中心とした九州各県の麺好きが集まってできた研究会「アジア麺文化研究会」のこと。「宮崎山里、蕎麦仙人と百済伝説 編」の第1話にも説明有り。

注4 明治後期: これまた四海楼で頂いた資料によると、明治40年発行の「長崎県紀要」によると中国留学生の大好物としてちゃんぽんが紹介されていて、当時、すでに市内に十数軒のちゃんぽん屋があったそうだ。

注5 徹底的: 実はそんなに徹底的でも無い。某図書館(室)にあった辞書を調べただけなので、昭和7年〜現在までしか調べていない。それ以前は分からない。

注6 少し年次は飛ぶが: 実は少しどころか、かなり飛んでしまう。昭和10年から昭和38年まで28年も飛んでしまっている。その間はどうなっていたのだろうか???

注7 二種類の皿うどん: それどころか、長崎から遠くになるに従い(例えば関東)、「太麺炒めあわせタイプ」の皿うどんがメニューになく「揚げ麺あんかけタイプ」が唯一無二の皿うどんと思われがちになってしまっている。実際に東京にいた頃は太麺の皿うどんを食べたくなって、探すのに苦労した経験がある。あったとしても太麺にあんかけという折衷タイプの物だったりして釈然としない物を感じた覚えがある。

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