Carlosの喰いしごき調査委員会 西安の某有名外資系ホテルで仕事の打ち合わせを兼ねて朝食をとった時の話である。目の前でオムレツを作ってくれるブースがあった。外資系ホテルらしいサービスである。せっかく目の前で作ってくれるならと、タマネギとマッシュルーム入りのオムレツを注文してみた。ところが、この中国人オムレツ調理人、何故か私に対して烈火のごとく怒りだした。中国語の分からない私には、何が彼の気に障ったのか、さっぱり分からなかった。その理由は未だ持って不明であるが、想像するに「順番だ!今すぐは出来ねぇ!」と言ってたのかもしれない。 2.お十時 というわけで、結局オムレツは食べれず、モヤモヤだけが残ってしまった。オムレツ以外は一応は食べたのだが、なんだか胃袋は納得していないようだった。幸い、次の予定まで少々時間があり、移動途中にある清真街で「お十時」を食べようということになった。 清真街はイスラム教徒の町であり、イスラム寺院の門前町といったところだ。様々な商店が軒を並べ活気のある町である。食堂の軒先では土鍋のなかでグツグツ煮えている料理、ジュウジュウ焼き上がる串焼の肉と賑やかである。片っ端から食べてみたい衝動に駆られたが、あくまでも「お十時」なので控えることにした。 ![]() あれこれ、誘惑が多かったが、結局、西安でも有名な「賈三灌湯包子」の湯包子(スープ入りマンジュウ)を食べることになった。湯包子の中身は羊肉、牛肉、三鮮(シーフード?)の三種類、もちろん清真街なので豚肉はない。小皿に入った黒酢とトウガラシダレも出されたが、かじりついた湯包子から熱々の旨々のスープがほとばしり、何も付けずにそのまま食べても十分美味しかった。比較的小型の湯包子は何個でも食べれそうな錯覚に陥るくらい旨かった。 ![]() オムレツのモヤモヤを吹き飛ばした湯包子に満足しつつ店を出て、しばらく歩くと、手延べ麺を作っている店があった。こねた小麦粉を両手で器用に麺に伸ばしていく職人技を写真に撮らせてもらおうと店内に入った(もちろん許可は頂いて)。ところが、ここの麺打ちのお兄さん、カメラを向けると恥ずかしがってしまい、どうにもやりにくそうにし始めてしまった。仕事の邪魔をしては申し訳ないのでカメラはあきらめ、打ちたての麺を一杯もらうことにした。この ![]() 4.草を食わない豚は喰わない 清真街ではコーランの戒律に従っているため豚肉料理は一切見あたらない。他の肉もコーランに従った屠殺方法が取られているはずである。 それでは、なぜ、コーランでは豚肉を食することを禁じたのだろうか?アラーの神がただ思いつきで豚肉食を禁じたわけでもあるまい。 歴史的には「豚は糞を食べるし、糞尿を体になすりつける汚れた動物だから」とか「豚肉には寄生虫がいるから」といった説明がなされてきたそうであるが、これらは突き詰めていくと矛盾が生じる説明であるとアメリカ人人類学者マーヴィン・ハリス氏は彼の著書「食と文化の謎−Good to eat の人類学−(板橋作美訳、岩波書店)」で否定している。この本の中で氏の納得のいく別の説明が書かれているので、極簡単に紹介すると... 「イスラム教の発祥の地であり、現在でもイスラム教分布の中心でもある中東地域は、乾燥気候で穀物生産には苦労のいる地域である。牛・羊の場合は人間が食べられない牧草を餌として肉や乳を生産できるが、草を食わずに人様の喰うべき穀物でしか肉を生産できない豚は非生産的な家畜である。また、豚は牛・羊と違って暑さに弱い。日差しが強く日中の気温が高くなる中東地域では豚の飼育は向いていない。」ということから豚肉はイスラム教徒が食べるに適さない肉としてコーランに記されたのではないかということである. ![]() 話は精神街に戻る。清真街の町並みは急速に近代化が進む西安の中にあって、昔の情緒を残す地域と言えよう。あのジャッキー・チェンの映画に出てきそうな雰囲気の街角も一部にある。例の酔っぱらった師匠が酒瓶を片手にフラフラと歩いていても違和感がない。 食堂の店先も賑やかな町であった。今回食べた湯包子や手延べ麺の他にも賞味してみたいお料理を町中でたくさん見かけた。豚肉が食べれなくてもいいから、いつかまた、この町を訪ねてみたい。それまで、近代化の波に飲み込まれないでいて欲しいと思うのは、よそ者のエゴだろうか? |